ニューヨーク邦楽事情   石榑雅代
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その272004年4月6日

ヨーロッパ公演
春風こそまだ吹いていませんでしたが、比較的暖かい天候の中、3月2日から16日間、
3ヵ国4公演のヨーロッパツアーが始まりました。

今回のツアーは、パリ市内で行われました”ワールドミュージック コンサートシリー
ズ”(パリ市主催)に招待され、そちらの手配で他の国にも演奏に行くことになりま
した。
ベルギー、オランダ、パリ、そしてフランスの南部にある町トルースの4箇所です。

いや〜〜なんと言っても15年ぶりのパリ。
この演奏に行けない理由なんてどこにも見あたらな〜〜い。絶対行かなくっちゃね。
もう頭の中はすっかりパリ一色。実は前から、パリ行きたかったんでえすよね。

ただ行きたいだけの理由で、公演に参加したなんて言ったら顰蹙?
な〜んてことない、あとで他のメンバーにも聞いてみれば、当然みんな同じ気持ちだっ
たらしいですよ。その証拠にツアー最後の5日間パリ滞在は、それぞれの伴侶も来ま
したもの。
さあ〜〜レッツ観光!!


今回のグループは、2002年にワシントンDCですでに演奏したことがある、アジアの弦
楽器で構成されています。
中国の琴グーチャン、韓国の琴カヤグム、日本の琴、そして韓国の太鼓チャンゴです。
今回中国琴の彼女だけが初参加でした。
ツアー出発の4日前、彼女の婚約者がカヌーの事故で亡くなるという大変な事態になっ
てしまいましたが、キャンセルすることなく予定通り4人で出発しました。

中国琴奏者と私はニューヨーク在住、チャンゴ演奏家はドイツ生まれ&在住の韓国人、
カヤグム演奏家はアラスカに住むアメリカ人。
何故このようなユニークなグループが出来たかとよく聞かれますが、とっても単純な
理由なんです。
カヤグムを弾くこの彼女は、ウエスリアン大学で日本の琴を勉強し、その後ハーバー
ドの大学院へ進み、以前にも留学していたことのある韓国へ再訪韓、現地でカヤグム
をシリアスに習う。お琴も1日6ー7時間練習していたらしいですよ。
その数年後、同じく過去に住んでいた事がある中国へも留学し、グーチャンを勉強。
彼女は3つの楽器全部が弾けるんですね。
ハーバード大学院時代に出会ったご主人(作曲家)が、この状況を生かさぬ手はない
と、
彼女から3つの楽器の特徴を密に聞き出し、それぞれどのようなテクニックが可能か
を研究、作曲。
彼の曲、例えばお琴で言えば「六段」に似たフレーズが沢山取り入れられていますし、
他の楽器も同じく伝統音楽のフレーズが所々に使われているそうで、始めてトライし
た曲の割には、それぞれの楽器の良さがよく生かされ、上手く組合わさっている曲だ
と思います。

それにしてもみんな離ればなれなので、短い時間で2つの新しい曲の練習は、非常に
苦労しました。2月の半ば過ぎからニューヨークで練習が始まりました。
ツアーの中で2曲、4人で弾く曲がありましたが、他の1曲は今回一緒だったチャンゴ
の彼の新作。これまた琴に関しては怒り爆発もん。めっちゃ難しい〜〜!!
「おい、このテンポでこんなの弾けるかぁ〜〜!!どあほ(さぁ、”どあほ”をなん
と英語で言ったか...は秘密)」とか言って、ドイツまで怒鳴って電話しちゃったり
しました。
優しい彼はすぐに書き直してくれたのですが、なんとそっちの方がなんだかもっと弾
きづらくなったみたい。今更それはとても言えない....。
短気は損気。わかっているけど...。反省。しかし学習能力全くなし。

勿論彼にも事前に琴の特性は説明してはありましたが、(彼はすでに17弦の曲も書い
ています)実際可能かどうかを弾かない人が理解するのは、やはり大変なようですね。

以前にもお話ししましたが、琴や三味線を使った曲を書いたと、日本人も方も含め多
くの作曲家の方から楽譜が送られてきますが、将来的に演奏会の予定なく、すべての
曲を糸譜に直して弾いてみる時間は残念ながらありません。出来る限りやってはいま
すけど。
でも途中で「もう、パ〜ス!」というもの多々。
きっと、ピアノやギターと同じ感覚で書いていらっしゃるのでしょうね。
「こんなの、死んでも出来へんわい」と思ってしまう私でした。
念のため、これはあくまでも私の技量の話です。

楽器を弾かない人が、可能な範囲でのテクニックを使って、ある意味心地よく弾け&
聞ける曲を作るのはとても難しい事でしょうし、そのような新しい曲を受け入れてく
れるお客さんを持つことも更に難しい事だと感じています。

色々な分野の音楽家の方から”ニューヨークって、現代音楽や実験音楽なんかが、ス
ムーズに受け入れられるんでしょ?”と質問されます。
私的には返事に困ってしまう訳ですが、決してニューヨークだからといって、来た人
誰にでも前衛が受け入れられているという状況ではないと思います。
これは余談ですが ”ニューヨークの人って普段のファッションも凄いんでしょ?!”
とかね。これも絶対に思い込み。
はい、たしかに凄いですよ〜〜、破れていてもまだ平気で着てますから....。

どんな音楽会でも、お客さんのうちの何人がその音楽に精通しているかというのは、
定かではありませんよね。
その一例、私は日本音楽についてしか言えませんが、ニューヨークである日本人有名
演奏家による琴&尺八演奏会が行われました。
初日は伝統音楽のみ、2日目が現代音楽。
結果としてお客さんの入りのよいのは初日。会場を見渡したところ、客層は80%が外
国人。やっぱり日本人はなかなか集まらないですね。
あまりにも音楽的に高度であるような事を予期させてしまうと、一般の方は引くのか
もしれない...。ちらしから内容が読みとれないものより、ある程度予想のつくもの
に、人の集まる傾向があると主催担当者の言葉。

私も全く知識のない楽器&音楽会に行ったとき、内容が難しくてよく分からない、ま
ず楽しくない。音楽家の端くれとして、これって情けないですかね?
ひどい時には、この曲あと何分くらい続くのかと、残りの楽譜の厚さを見たりした事
ないっすか??
そんな時に自分が知っている曲が出てきたときの、あの安堵感。きっと誰でも経験が
ある筈。
想像するところ、来てくださる方の多くは素人さんですから、ある程度聞く側の立場
に立って曲の選択、舞台創りが必要なんだろうと、以前にも増して思う曲この頃です。



世界中にあるマクドナルド
朝メニューには、小さいけど美味しいクロワッサンなど3つのパンとコーヒーが付い

1.50ユーロ。(180円くらいですか?)
特に驚いたのは、フランスのマックのコーヒーはエスプレッソ。
ご存知の通り、エスプレッソは量が少ないので、ついついけちくさく”ちょびちょび”
飲んじゃいますが、(そう飲まなかったら2秒で飲み終わってしまうではないか〜〜)
マックでも美味しい。アメリカでいつも飲んでいるのは一体何??って感じ。
おっと、この発言アメリカ合衆国、マクドナルドの両方に失礼ですね。

こじんまり、そしてきちんと整備された細い道を小さな車が走ります。
窓の外には季節の花を飾り、エスプレッソを片手に....。こんな所に住んでみたい。



ノートルダム寺院すぐ横のセーヌ川の畔でJassのグループ。こんな所で私も演奏して
みたい....。
あ〜〜この現実とのギャップ一体どうしらいいの?


その282004年6月30日

外国に住むということ
12年前に右も左もわからないまま、ウエスリアン大学の琴と三味線の講師として外国
にやって来た私。
沢井箏曲院前任インストラクター2人の作ってくれた基盤をそのまま受け継いだ訳で
はありますが、それでも言葉の問題、文化の違いやらなんやらにとまどいながら、こ
の12年過ごして来たように思います。

日本に住む方から「外国でお琴弾けていいですね。漠然ではあるけれど、私も外国で
お琴を弾く事が夢なんです!!」と、このようなmailを最近よく頂きます。
確かにみなさんのおっしゃる通りだと思います。
外国で自分のやりたい事を通して外国で生きていけるなんて、これ以上の幸せはない
と思っています。
ですが、その裏には本人にしかわからないちょろっとした苦労も有り、そのまた苦労
の中には自分の力、努力だけではどうにもならない事も実はあるんですよね。
その自分の力だけではどうにもならない事っていうのは、簡単に言えば自分達がここ
で外国人である事。

ニューヨークマンハッタンでは、世界中から多くの人種が集まり暮らしています。
このご時世、どんな人種を見ても驚く事は殆どありませんが、少し田舎の方へ行けば、
まだまだアジア人が珍しいのでしょう。レストランで、地元のお客さんに上から下ま
でなめ回すように見られることもありました。
”可愛いからだよね”と言うと、仲間は”うんそうだね”と言ってくれます....!!?

なんでこんな事をいきなりこんな事を書くかと言いますと、地獄の経緯を経てやっと
永住権が取れたのです。
私の場合、永住権取得まで結構苦労した方なので、みなさんにこの経緯をぜひ聞いて
下さいませ。



永住権ってなに?と良く聞かれますが、永住権とは文字の通り、外国人が外国に永住
する権利です。(日本国籍のまま、アメリカに住む権利)
すでにご存知の方も多いと思いますが、90日以上アメリカに滞在する場合は、なにが
しらのビザ(あくまでも短期間の滞在意思と見なされます)が必要ですよね。

永住権を取るには色々な方法がありますが、私の様な仕事をしている人間には非常に
厳しいものでした。
琴演奏家という種特殊技能は、基本的にアメリカ人には出来ない分野の仕事なので、
各国の文化を継承する人に対しては、ビザや永住権がおりやすいと弁護士も判断する
のですが、
そうは問屋がおろさない。あ、ちがう移民局がおろさないか..! 本当におろさなかっ
た。

92年から95年までは大学の非常勤講師として学内だけで教えてました。
その時は交換留学生ビザ、それが95年に切れて3年以上の更新が不可能だったので、
アーティストビザ(芸術家ビザ)に切り替える為の下準備をし、不法滞在にならない
為に一時帰国。
アーティストビザというのは雇用主が必要ですから、(決められた金額の収入がある
事が条件)ニューヨークにいる数万人のアーティストは、普通その雇用主探すのに必
死です。
たとえば絵を描く人ならば美術館で働いたり。
当然多くの人がそのようなポジションを探しているので、どの分野もそう簡単には見
つからないのが現状のようです。
どうしても雇用主が見つからなかった人は、アメリカ滞在をあきらめ自国に戻ったり、
ある人は全く違う分野の仕事に就き、とにかく就労ビザを取得し、合法でアメリカに
滞在しているという人。
なので良く話を聞いてみると、今は銀行員だけど実は音楽家だったり絵描きなんて人
も少なくはありません。というか、結構いますね。

幸い私の場合雇用主が大学だったので、始めの数年は順調にビザがおりていました。
通常、働く為のビザは一度に最長3年づつ許可が下りるのですが、私の大学の講師と
しての雇用契約期間は1年更新でしたから、残念ながら数年分まとめてのビザを取る
ことが出来なかったので、毎年1回弁護士を雇いビザを更新していました。
大学雇用のビザが6回目、7回目とあまりにも更新回数多くなったある年、ついには移
民局から”本当に大学で教えているのかどうかあやしい”という理由で、ビザが却下
されもう大変。最終的に、大学からの手紙でビザは貰っていましたが....。

同じ雇用主で、ビザを10回も更新する人はあまりいないのかもしれない....。
それほど雇用側が必要な人間ならば、短期的なビザではなく、永久にその職場で働け
るように永住権を申請するのが普通だからです。

それには、移民局が定める最低の賃金が決められています。
95年以降、大学では個人教授という立場だったので、毎学期琴&三味線のコースを取っ
た人数分だけの給料だけが学大学から支払われるシステムになっていました。
残念ながらその金額が、移民局が定めた額には達していなかったので、大学の教師と
しての永住権を申請することができなかったのです。

沢井箏曲院から、同じ年に海外に派遣された仲間が2人いましたが、その彼女たちは
すでにそれぞれの土地で結婚していたし。。。当時残っていたのは一番年上の私だ
け.....!!(当時)
周りに他に同じ職種の人もおらず、よい解決策もみつからぬまま、この先どうしよう
かと焦るだけの日々でした。
その頃、芸術家の為の永住権という新しい法律ができ、いち早く情報を得た各分野の
アーティスト達は次々に申請を始めていました。

申請の為の弁護士料は$4000〜(約45〜50万円程度)が基準でした。
これは、取れても取れなくても支払う金額です。
しかし、お金を払えば取れるというものでもありません。
移民局に対して、自分が択一した能力を持つアーティストだという証明しないといけ
ないのです。移民局が設定した基準が、これまた厳しいものでした。
本当にこの基準に達している人が何人いるのかしら?と思った程です。

私は音楽大学卒、こちらで教育に携わる仕事に就いている、米国内で十分な演奏履歴
もあるということで、95%の確率で取れるでしょうと、弁護士から太鼓判を押され
1度目挑戦しました。しかし返事はNO。永住権は出さないと。

却下の理由
審査官の言葉をそのまま書けば「“琴”なんて楽器をいままで聞いたことも見たこと
もない。そのような知られていない楽器をアメリカ人が習う訳がなく、アメリカ社会
に入る込むことは考えられない」と言う理由でした。多くのケースを扱っている弁護
士もこの理由には唖然。
勿論、今現在でも100%の人がお琴を知っているとは言いませんが、琴をいう楽器を
知らないのは単純にその審査館の無知でもあるのですよね?そう思いませんか??
自分が知らないからと言って、却下する理由にはならないと思うのですが....。
私の活動に関する十分な資料はすでに提出済みなのです。
ちゃんと見たんだか、見てないんだか?

それから1年半が過ぎ、また法律が改正されました。この法律改定は、永住権を申請
する者にとっては朗報でした。
その法律が自分にとって有利であることが分かったので心機一転、弁護士を変えもう
一度申請の為の作戦を練り直しました。
新しい弁護士との始めの面接の時に、関連資料などをすべてもってくるように言われ
たので、箱に詰めて持って行ったんですね。
弁護士さんが、「日本での活動記録まではいらないですよ」
「いいえ、これアメリカに来た92年からの新聞記事とプログラム関係なんですけど」
こんなに沢山の資料が揃う人は、今までに見たことないとも言われました。
だったらなぜ一度目に取れなかったのか???
握り拳で机を叩きながら、彼に何度も聞きました。
悔しい思いで一杯でした。

弁護士が言いました。「永住権申請の場合、推薦状は非常に大切です。1度目の申請
書類を拝見しましたが、まず推薦状がよくない。これでは取れる訳がないでしょうね」
ガ〜〜〜ン!あ〜〜ショックのパァ〜!
石を投げれば弁護士に当たると言われる程、アメリカには弁護士が大勢いる訳ですが、
やっぱり当たり外れがあるってこと。

2人目の弁護士は「これだけの提出書類が揃っていて、また今回永住権が取れなけれ
ば、自分の弁護士生命&信用にかかわると思っています」
その言葉を信じてもう一度申請のお願いをしたのでした。
その半年後に、例のテロ事件が起き、外国人に関する規制がまた一段と厳しくなって
来ていると、ニュースや新聞で盛んに報道されていました。

内心心配でたまらなかったのですが、幸い半年後に移民局から永住権の許可が下りた
のです。
あまりにも長く精神的につらい道のりだったので、その時は喜ぶ元気もなくしていま
した。
ある程度日が経ってから、やっといままでの悩みから解放された実感と嬉しさが沸い
てきました。

      __なかでも結構つらかった思い出__

その年の4月に沢井忠夫先生が亡くなり、悲しみをこらえ一人でニューヨークに乗り
込み、これからがんばるのだと張り切っていたのです。
その頃まだ日本で芸術家ビザを待っていた私に、ニューヨークの尺八プレイヤーから、
こちらで演奏会があるからなんとか来られないかと聞かれ、その時点ではまだビザが
出ていなかったのですが、ビザを持たないまま3ヶ月の予定でアメリカに来て、サブ
レット(また貸し)の部屋に住んでいました。
そしたらそのうちにラッキィーにも、申請中であった芸術家ビザが下りたので、早速
カナダモントリオールのアメリカ大使館でビザスタンプを貰いに、バスを乗り継いで
カナダまで行ったのですが、見事に却下。
理由は、また貸しのオーナーが偶然男性だった為 「あなたはこの人とグリーンカー
ド目当てに結婚するんですよね?」と審査員に勝手に決めつけられあっけなく却下。。
ただ部屋を借りているのだと言っても全く信じない。
ショックを受けている時間はなく、対策を練る為すぐにニューヨークに戻りました。

ビザが下りていても、ビザスタンプがない限り90日以上アメリカには滞在できないの
で、すぐに自分がいつ入国したかカウントしてみれば明日で90日目
(ビザスタンプがない場合、90日以内しか滞在できない)

目の前が真っ暗になりました。
尺八の方からは、すでに幾つか演奏のお仕事を頂いていましたし、実は10人程度の
生徒さんもいました。
とにかく不法滞在にならないようにと、次の日の夜11:55発の韓国行きに乗りアメリ
カから出る。
いきなりの”今から帰るコール”に、妹は”おねえちゃんついに壊れた”...と、思っ
たらしいですよ(笑)

日本に戻り、再度ビザスタンプをもらいに、もう一度大阪のアメリカ大使館へ直接出
向く。
この時はなんの問題なくスタンプを貰うことが出来てほっと一安心。
岐阜の自宅玄関を開けたと同時に電話が。
いま祖母がなくなったとの知らせ。
92年9月に、成田空港まで見送りに来てくれた時の祖母の顔を思い出し、自分の命と
引き替えに、私が外国で活動出来るチャンスを与えてくれたのだと心から感謝してい
ます。

もう1回は、つい最近の出来事
後は税金関係の書類を提出して、永住権カードが送られてくるのを待つだけとなった
ころ、移民局からのいきなりの呼び出し。弁護士も予想外だった様子。
永住権発行最後の段階になって、不審な点がある申請者は呼び出されることもあると
聞いていた。なんと自分が呼ばれてしまった!
弁護士いわく「石榑さんの書類には全く問題がないと思っています。心配せず行って
きて下さい」とは言ってくれたが、どこにも100%の保証はない。
最悪の事態を想像すると、これまた寝られない日が続く。

移民局の待合室には、弁護士を連れた申請者がみな不安そうな顔で座っている。
すぐに自分の番がまわってきて、話を始める前に審査官に宣誓をします。
本来左手を挙げるんですが、わたしは緊張していたから右手を挙げて....。
ええ〜〜〜い、どっちでもええって!!
審査官「あなたが何故今日呼ばれているか私にも良くわからない...。書類上なにも
問題がなさそうだから、これから最終永住権を出します」と。
今度は涙こそ出なかったが、身体から力が抜け落ちる感じだった。
というわけで、無事永住権を手にしたわけです。

外国に住むという事がいかに大変であるか、少しおわかりいただけたでしょうか?
海外でお琴を弾くという夢を持っていらっしゃる方々。
これ読んじゃっても、夢は絶対に捨てないでくださいね。
これからも、お琴がんばりましょう!

来月7月末には、ニューヨークで尺八フェスティバルが行われます。
世界中から約350〜400人の尺八プレイヤーが参加するそうです。
いつか琴フェルティバルも出来たらいいよな〜〜。

それでは、みなさま楽しい夏をお過ごし下さい。


恒例の桜祭り 母になった気分で教えています!!               若干15才。可愛いですね。


その292004年10月20日

救急病棟
日本ではよく見ていた”密着救急病院24時間”
スタッフは寝ずの対応、生死をさまよう間患者が次々と患者が担ぎ込まれ...!!

国がかわるとこれがちょっと違うんですね。
先週はじめて大きな病院のエマージェンシールーム(救急)に行く羽目になりました。
といっても、大怪我をしたわけではなく、4日間高熱(連日39度以上)が下がらず、
日に日に目の焦点も合わなくなってきたこともあり、こりゃちとやばい..?
とても大切な演奏が、次の日の6時からだというのに熱が下がる気配なし。
新聞に写真付きでバリバリと宣伝してもらって、死んでも休むわけにはいかなかった。

アメリカの救急は、医者が診てくれるまで通常待つこと平均3時間と言われています。
たとえ指を切って血がだらだら流れていようが、腸捻転の痛みで転げ回ってよう
が...。
その昔、拳銃で撃たれた人が、死んだようにベッドの上で横たわっているのを見たこ
とがあると聞いた事がある。それでも誰もあわてない、急がない。

一体何人のお医者さんが救急病棟で働いているのよく分からないが、とにかく!とに
かく待たされる。私が行ったのが土曜日の夜だったので、3時間待ちは覚悟していた
のですが、なぜか病院すきすき。手続きをおえて診てもらうまで約20分。なんだか拍
子はずれ??まあこれを単純に”ラッキィー”という。

個室になっている部屋に入れられ待っていると、始めにアジア系のとってもかわいら
しい若い先生が来て自分は医者だと。簡単に心音などを調べてまた暫く待っていると、
少し貫禄のある先生がポケットに手をつこんだままやって来て、「こんにちわ、気分
はいかが」って。「おまえ、なにをぬけぬけと聞くかな?熱が下がんねーから、来た
にきまっちょろ〜〜!」ムッとしたまま答える。
彼が部屋に来た時からずーと思っていたのが、「おめえ、ポケットから手を外に出せ
〜!!」

すでにさっきの若い先生から私の状態を聞いているらしく、全くあわてた様子もなく
「早く帰って寝て、市販の薬xxxとxxxを飲んで。あと水分もよく取ってね」と言い残
してどこかへ行ってしまった。
主人と二人であっけにとられる。熱が出始めてからは食べ物を食べる気力もなく、空
腹ですでに何日も市販の薬を飲み過ぎていて、胃を痛めたらしく口の中は口内炎幾つ
もできていた。

しつこい私、若い先生に「ねえ先生...私明日大切な演奏会があるんで、熱の下がる
注射をなんとかひとつお願いできませんかね」
先生いわく「熱が40度ない限り、たいしたことはないですよ。ご心配なく。注射なん
かしなくて大丈夫」40度はないかもしれないけど、38.5〜39.5度が何日も続けば、あ
んた大人だってそのうちどうかなってまうでぇ〜〜。

一体ここはどうなっているんだ ????マークであった。
泣くなく家に帰ってきたときには、少し下がっていた熱がまた上がってフラフラ。
こんな事なら、誰だって行かなきゃよかったと思うでしょうに。ただお金使って、不
信感募って...。

公演当日、8月のこの暑い時期に一人だけジャンバー着て、手袋してマフラーして。
それでもまだ寒くて仕方がない。
”あっ、変なおばさん”昔こんな歌ありましたよね? イヤ違う、変なおじさんか?

リハーサルの時、一生懸命楽譜を見ているつもりんだけど、手が勝手に同じ行に戻っ
てしまう。自分でももうコントロールが効かない。まじでっか、こりゃ参ったな〜〜。
それでも本番の時間が迫ってくると、無意識のうちに頭の中の”もや”が掃け、意識
がはっきりしてきたみたいで、旦那いわく本番の演奏は何とか大丈夫だったみたいで
す。演奏が終わった途端に、またその”もや”が戻ってきたけど。

アメリカ人の生徒にこの話をしたら、40度以下で救急に行くのは野暮と言われてしまっ
た。おまけにアメリカではちょっとやそっとでは注射は打たないらしいことが分かっ
た。その彼女が体験談を聞かせてくれた。

彼女は英語の先生として日本に数年住んでいたが ある日風邪をひき、外来の医者に
連れていって貰った時、医者が熱を下げるための注射を打ったらしい。注射をすると
聞いて彼女は自分がもう死ぬ一歩手前なんだと思ったそうです。(ちょっと大袈裟だ
けど...)

アメリカ人にとって、注射というものがどのような物なのかおわかりいただけると思
います。その後彼女は丁度論文を書かなければいけない時期だったので、「日本とア
メリカにおける注射の違い」というタイトルにしたそうです。
”そんなことだったら、先生にその論文見せてあげれば良かったね....。
今からでも是非読ませてほしい。

悪い事は続く。
最後に舞台でお辞儀をしたら、頭の付け毛が落ちちゃった。
お客も一瞬固まって、笑って良いかどうか迷っていたようだが、私が笑ったらみんな
も笑った。まああの場で笑って盛り上がって良かったではないか...。
しかし最悪の日であったことに間違いはない。
自営業は特に身体が資本。悲しいけどもう若くないんだな〜ってね。


                           暑そう〜〜!!


******************

国際尺八フエスティバル

今回で4回目を迎えた「国際尺八フエスティバル」が7月の終わりに4日間ニューヨー
クで行われました。オリンピックにちなんで同じく4年に一度行われるそうです。

世界中から尺八奏者が集い、連日違うテーマで朝から夕方まで講習会、夜は毎晩違う
企画でコンサートが行われました。今回の参加者は聞くところによれば総勢300人。
日本からは人間国宝青木鈴慕先生、荒木鼓童先生、川瀬順輔先生等がお越しになりま
した。
アメリカ国内はもとより、遠い所ではオーストラリアからの参加者も沢山いたことに
大変驚きました。
尺八と琴との合奏で毎日参加させて頂いたのですが、正直な感想としてみなさんめっ
ちゃ熱心なんだな〜〜って。
このような企画が実現出来るのも、きっと楽器が小さくどこにでも楽に集まれるとい
うのが利点ですよね。なんだか羨ましく思いました。
お琴も、こんな機会があればな〜〜なんて思わずにはいられません。

最終日の演奏会は約5時間にも及ぶ長いものでしたが、日本国内、または世界の各地
で大活躍していらっしゃる方々の演奏が中心でした。
演奏からだけではなく、お顔の表情や舞台での立ち振る舞いなどからもその方の個性
や人生感などが見えるような(勿論気がしただけです...)。私的には、この演奏会
を通して勉強させていただく事がとっても多かったです。
ここアメリカでは、邦楽の演奏を客席から見るというチャンスが少ないので、色々な
角度から自分自身を振り返ってみる良い機会だったと思います。

左より3人目 青木彰時先生、その後藤原道山さん、その前私。         憧れのネプチューンさんとのツーショットで
        御機嫌、うちの旦那



尺八フエスティバル最終日
左より 青木鈴慕先生、川瀬順輔先生、荒木古童先生

最終日に青木先生のご子息青木彰時先生と「千鳥の曲」をご一緒させて頂いたのです        .
が、いざ演奏って時にあんぐり??かばんに入れた筈の楽譜がない...。
柄にもなく、朝からなんだか緊張していて、どこかに置き忘れ!?
約2分程度お待ち頂き、楽譜を取りに行って...。どっと脂汗が。
日本だったら破門になっていたかもしれないですね。
日に日に、素晴らしくちゃらんぽらんになっていく自分が恐ろしい今日この頃です。


来週から2週間のスイス公演に行ってきます。11月にはフランスでのコンサートもあ
るし、少しくらいはフランス語勉強した方がいいのかな〜?とか思っているだけの毎
日です。フランス語より英語が先だよな....。


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