ニューヨーク邦楽事情   石榑雅代
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その8その9その10 2000年12月25日

その8

日本でびっくりしたこと  2000年7月17日

私の毎年恒例の楽しみの1つに夏の日本への帰省があります。
日本にいる時だけでも一切お琴と関係ない生活がしたいと.....失礼しました!!でも本心。

昨年までは暑くならない6月中に2週間程帰省していたのですが、今年は時間が取
れず7月に入ってから両親の元へと・・。
私と入り違いに日本からNYへ戻ってきた生徒さんが ”日本はまもなく梅雨入
りするらしいですよ!”と教えてくれたのですが、”梅雨?”ってなんだっけ?
ってな感じで言葉さえすっかり忘れていました。
ここNYも十分暑いので、なーに梅雨なんかに負けるものか!楽しんでくるぜ〜っ
と張り切って空路へ。
しかし予想していなかった暑さ+とにかくあの湿気に、元気を絵に書いたような
身体も負けて帰るなり熱が出た。最悪!!
そして妹からは日本でひそかに?今流行語らしい "パラサイト" の話を聞き
ちょー気分が悪い。
約2週間の間 ”パラサイト2号”の妹は私の事を ”パラサイト1号”と連発。
最悪の姉妹!
でも滞在の最終日には、電話で「私パラ1号ですけどね!」っとすぐノリやすい
バカな姉。

今年は、日本の自動車免許の書き換えの年に当たっていたので、猛暑の中更新に
行って参りました。
相変わらず日本は、何をするにも丁寧に係の方がお手伝いしてくださるものだ〜
っと感心しながら待合い室で順番を待っていたら、何処からか演歌が聞こえて来
るでは...。初めはなんじゃ〜?という感じで聞き流していたのですが、何度も
何度
も聞こえてくるので音の聞こえる方に勇気をだして振り返ってみて ちょ〜
びっくり。どっひゃ〜〜 今日おじさま方の中には携帯の呼びだし音に演歌をお
使いの方が?
日本の皆さんはごく自然に思われるでしょうが、日本国内で携帯デンワがこれほ
ど迄に普及してからゆっくりと時間を過ごすことの無かった私にとっては、携帯
から聞こえる演歌になぜか恐ろしさを感じてしまう出来事でした。しかしその曲
が非常に懐かしかった事にダブルショック。
そしてもう一つ驚いたのは、NYのテレビでしか見たことが無かった”がんぐろ”
さんたちを、私の田舎の街中で見かけたことです。もう彼女達のはやりのピーク
は過ぎて、最近はたいした事はないと母には言われましたが、それでもいなかっ
ぺの私とってはそれはそれはもう...。空いた口がふさがらないとはこのことで
すね。
振り返って見て、戻ってもう一度見たりして。本当に顔をまっ黒にしてるんですね。
NY の皆さんにも是非見せてあげられたらと本気で思いましたよ。
外国で歩いたら、きっとあなたも有名人間違いなし!

話を元に戻しますが、演歌が携帯に使われるならせめてお琴弾きだけでも、全員
携帯のリンガーは琴の音で!っとも思ったのですが、よく考えてみればやっぱり
勇気がない。日本では出来ないな。電車の中で ”ちい〜ん とお〜ん”うっそ
ー^^やっぱダメダ私は! 弾いている人間が思うんだからどうしようもない
か(ちなみに私の携帯の音は今のところ普通です)。でもここは外国、所構わず
営業しなくっちゃね。それくらいの努力は当然かも。恥ずかしいなんて思う事自
体変なんだ。バスの中&道で携帯からお琴の音が聞こえてきたら、その音がすば
らしい音だと思う人、また純粋に音に興味を持った人、なんじゃ〜?と思う人等
色々いるだろうけれども、何人かはきっと話しかけてくるでしょうし、上手くす
れば望む所将来演奏会においでいただけるとか、お琴を習う所までこじつけ晴れ
てあなたも日本音楽ファンの仲間入りってな調子かも。ここ外国なら全く捨てた
考えでもなさそう。試しにやってみるかな〜?でもどうやって音って変えるのか
な?英語の解説文よんで?ゲぇっ。今度にしよう....。

毎年1回日本へ帰っていても、1年でこれだけ驚く事がある今日この頃、邦楽界も
きっとよくも悪くも何か変化があったのでは??と期待して、地元のお琴仲間と
食事をしながら話をしたのですが、なんてことない毎年同じ内容で最終的にぶつ
かる問題は同じ。あーどうしてこんなに日本の邦楽界は??!!と考えさせられ
てしまいます。そんな何となく暗い気持ちのまま2週間のお夏休みが終わりアメ
リカに戻ってきたら、数人の方からお琴を始めたいとの電話連絡を頂いており単
純にやっぱり嬉しい!!「本日初めて先生にお目に掛かるので今日は着物で...」
そんな先生はTシャツに単パン姿。ハハハ〜こんな先生ですから、次回からはど
うぞお気楽にと言った。

沢井琴曲院NYは、来年3月に沢井一恵先生と故沢井忠夫先生の後を継いで現在沢
井琴曲院の会長を務める、沢井比河流先生をお迎えしての大規模なコンサートを
企画しています。NYのメンバー約20名が一緒に参加演奏させていただく予定で
います。私自身これから先、今は全く想像がつきませんが大量の下準備&合奏曲
の練習&雑用に追われる日が続くでしょうし、評価+批判も総て受け入れて行か
なければなりません。数回ある本番終了までの責任者として、すべてを取りまとめ
て行かなければなりません。経験不足の私にとって、これらは決して楽な事では
ありませんが、自分の生きている意味をからだ全身で感じられる時ですし、自分
の人生をかけて打ち込める最高のチャンスだと思っています。月並な言葉でし
か表現出来ませんが、「本当にお琴を弾いてきてよかったな〜」と柄にもなく
珍しく感動している自分が少々恐かったりもする。



その9

人生相談もひきうけます....?  2000年10月14日

ある日、一本の留守電が残っていた。再生を押してみれば「せんせい〜、this is +
++++。I can not come to my koto lesson today!私は+++ですけど今日のレッ
スンに行けません」(外国人を含む生徒さんから私は日本語で”せんせい”と呼ばれ
ています)と言っている。
ちょっと!なに?電話の向こうで泣いているではありませんか?もしや近親者に突然
の不幸でも!とおそるおそる彼女へ電話。「Hello..」彼女はまだ泣いていた。なん
と切り出すべきか最初の言葉は肝心。取りあえず「どうしたの?」「..........。」
数分後泣いている理由がわかった。幸い幸か不幸かその手の不幸ではなかった。しか
し彼女にとっては違う意味の不幸だったのです。話を聞いてみれば「3年越しで付き
合っている彼と喧嘩をして、もう分かれることになりそう〜!悲しい。どうしたらよ
いのかわからない.....せんせ〜い!ええ〜ん(^=^;)」私は受話器を持つ手が固まっ
た。いよいよ人生相談の時間がやってきたのだ。決して私だって人生経験が多いわけ
ではないのに。そしてこの様な状況において私の最大の不幸は彼女が英語圏の人だっ
た事。彼女は全く日本語を話さない。実のところ、私とこの彼女は4歳しか年が違わ
ないし、(ちなみに私がお姉さん)お互いまだ独身。おまけに彼女はアメリカ育ちの
(日本人ではありませんが)立派に働く素敵な女性なのです。どう逆立ちしても彼女
の方がこの国の風習における男女のあり方にも詳しい訳だし、一体私が英語で何をど
うアドバイスしてあげられるのか....。先生とは呼ばれているけどこちらの道のプロ
ではない。こんな時に英語力のなさを思いっきり悔やんでしまう。日本語だったら何
か言ってあげられるかもしれないのにと。
溜まっていた気持ちを他人に聞いてもらうことでかなり気分がすっきりした様子で、
電話であーでもないこーでもないと話すこと十数分。これで電話を切るのかと思った
ら、受話器を持ったまま何も言わない。しぃ〜〜ん。言葉が100%通じなくてもこの
私に何か救い?の言葉を求めているようだ。油汗がジワジワと出てくる気がした。そ
して思いついた行動が辞書を引っぱり出ししっかりと抱え、ゆっくり慰めの言葉をさ
がす。だけど焦ってその単語がみつからない。しけた辞書だ!!でも後でよく見たら
その言葉はそこにあるべくして載っていた。
幸い話の様子から、このカップルは完全にアウチでもなさそうなので、彼との復活の
時の事も予期して慰めの言葉を探す。あまりにも難しい言い回しを使いすぎているら
しく逆に通じない。
「え〜い、とにかくあんたたちはまだ完全に別れたわけではないんだから、気をしっ
かり持って明日は仕事へ行く事。わかった?」と仕事へ行く約束をし、次回のレッス
ンの時間を決め電話を置いた。
何とも言えない疲労感に襲われた。それはきっと彼女に起きたこの事件のショックと、
使い慣れない難しい英語を使おうとした事への疲労感、そして通じなかった徒労感。
ふと?私の人生相談はじゃあ誰がのってくれるんだろう....等など、色々な事が頭の
中をクルクルと回った。しかし言葉の壁を乗り越えて同じ女性として何かが通じた様
だ。ここでの外国人生徒の誰もが、私の英語を再度正しく自分なりに理解する技を持っ
ている。もうこうなれば”技”である。持っていたのではなく琴を始めてから育った
ものでしょうけどね、本当は。悪いね〜ぇ(^^)

お琴を通じて様々な経験をする。今回の事もその一つだろうと思う。ハッキリいって
ちょっと疲れたけど、でも私はとても嬉しいのです。完璧な言葉で話せないとわかっ
ていても、ほんの少しでもこんな私を頼りにしてくれた事非常に嬉しく思っています。
感謝さえしている。ここの生徒さんたちはいつも私にやる気と勇気を与えてくれてい
る。いや〜先生家業っていいものだとつくづく感動している今日この頃です。

またまたUP DATEが遅れてしまいましたが、実は9月にアラスカへコンサートに出かけ
た帰り、JFK AIR PORTでラップトップを落としてしまい液晶画面が粉々に。。。お店
の人も驚く程ボロボロ。やっとiMACを購入しこの文章をラップトップから救出。しか
し液晶の修理って高いんですね。新品を買った方が安いなんて...。海外保険もカバー
されず!一体何のための保険だか!いかん!またむかついてきた。皆さんもどうぞお
気をつけ下さいね。


その10

内弟子時代の思い出    2000年12月25日

 NYから一旦日本へ戻り、内弟子として3カ月間日本の沢井先生のお宅でお世話になっ
た私の生徒がいます。
その3カ月の間に何度か先生のお宅より元気な声でNYへ電話をくれたのですが、受話
器の声の様子から毎日の生活がとても充実している様子が伺い知れました。
ふっと!すでに十数年も前になりますが、自分が内弟子として先生のお宅にお世話に
なっていた2年間を思い出しました。今になって思う事は本当に出来の悪い内弟子だっ
たな...と!改めて.....。


 私がお世話になっていた時期(1985-1987)は、亡くなられた沢井忠夫先生がネス
カフェの テレビコマーシャルに出ていらっしゃった頃で、忠夫先生、一恵先生共、
年間を通してとても忙しくしていらっしゃった事が一番強く記憶に残っています。
 沢井先生はある時、海外公演に約1カ月近くもお出かけだったのですが、お昼過ぎ
に日本へ戻られ1人お稽古をして、早めの夕食を召し上がり、夕方の便でまた地方に
お出かけになっていました。自分の父と先生が同じ年齢だった事もあり、父と先生を
ダブらせてみてあの先生の元気なお姿に唖然としていました。
 当時はすでに4人の内弟子の先輩がいらっしゃいましたが、私を含めて新人4人が同
時期に入り全員で8人という過去最高の内弟子数になりました。

 今でも時々色々な思い出が一気に頭の中を駆け巡るのですが、やっぱり失敗した事
が一番に思い出されます。はっきりいってそれしかないんだけど。結構面白いので?
(勝手に自分でそう思っているだけですが)ちょっと書き出してみましょう。

1. 内弟子に入ってからはじめての一人でのお付き(先生のお仕事場に御一緒させて
いただくこと)が沢井忠夫先生の録音でした。先生が「せ’’’持ってきて」とおっ
しゃったのです。「はい!」張り切ってスタジオの方に「すみませんがせ’’’を貸
していただけますでしょうか?」。それを入手。先生がもう一度「どこにもってきて
くれた?」笑顔で「はい。扇風機かりてきました!!」「???」「???」「...
僕、セロテープって言ったんだよ。」ゲエェ.... 「せ」だけはあっていた。

2. 沢井先生のご自宅にあるレコードをせっせと自分用にダビングさせていただいて
いました。当時は先生が殆ど東京にいらっしゃらなかった為、両先生と内弟子の間に
は連絡ノートという物があったのですが、ある朝先輩の一人が笑いながら「まーちゃ
ん、忠夫先生の伝言ノートに ”石榑様 使い終わったレコードはきちんと元の位置
に戻してください”って忠夫先生が書いているよ。」
石榑様!?「さま」ときたか!!!ヤベェー。戻しわすれたか....。

3. 日本で沢井忠夫合奏団に所属していました。合奏団定期演奏会のリハでの出来事。
若手ばかりで演奏する曲があり暗譜の指示が出ていたのですが、殆どの人がまだ暗譜
が出来ていなくて先生にひどくひどく怒られた。最終的には一人ずつ弾いてみるよう
にように言われ大ピンチ。これはもう逃げられない。順番が回ってきて、先生が何を
私にお尋ねになったのかはもう忘れましたが、その質問に対して私は「おう〜ん」と
声にならない変な声!で答えた。自分の意思とは全く違う所から声が出てビックリし
たのは本人だけではなく、団員の肩が震えていたのを自分のこの目でしっかりと見た。
 でもその返事に対しては先生は怒ってはいらっしゃらなかった記憶がある。もうど
うでも良かったのに違いない。ハハハ......。 かなり年月が経ってほとぼりが冷め
てから、先生と内弟子の間でしばらく笑い話の「つま」になった。

4. 先生が自宅にいらっしゃるときは、先生のご家族と大勢の内弟子とでいつも賑や
かに夕食を同じテーブルでいただきました。沢井先生がお食事後お疲れから腕ぐみを
して居眠り。「あ!先生のお茶がカラだわ!、熱いのをお持ちしようっと」新しく入
れたお茶は実は湯飲みが熱くて持てない程でした。事もあろうに持っていく途中蹴つ
まづいて湯飲みにお茶が殆ど残ることなく先生の太股に...。うっちょおー〜〜!!
着替えて食卓へまた降りていらっしゃり、「もぉ〜〜、熱かったよ!一体何に蹴つま
づいたの?」「それが何も蹴つまづく様な物が見あたりません....。で、あつ.....
熱かったですか?」わざわざ聞きなおしたおバカ。

5. 練習嫌いの私についにバチが当たった。先生の自宅である曲を練習していたが、
聞くに耐えられない演奏だったのだと思う。先生から厳しく注意を受けた。内弟子と
は思えない程ひどい演奏だったに違いない。数日後”胃”の中が切れるように痛みだ
した!何度となくその耐え難い痛みを覚えた。夕食後イスに座っていられない程の痛
み。翌日病院ですぐ胃カメラ検査。「胃の中が真っ赤になって荒れています」意外や
意外。私にも繊細な神経が通っていたんだ。先生が一言。「あなたってそんなに繊細
だったの?」 [........ 。」でも先生の方はこんな出来の悪い生徒を家の中に置い
てしまって、実のところ胃がいくつあっても足りないかもしれない。申し訳なかった
なあ。

6. 言うと怒られそうですが、あのいつも**な忠夫先生からたまに出る”名古屋弁”
が私にはたまらなくおかしかった。先生は愛知県の生まれで、岐阜出身の私と殆ど方
言が同じなんですね。標準語を意識していらっしゃるんですが、な〜〜んか言葉の端
はしに名古屋弁が混じっているのがわかってしまうんですよね。一度バリバリ中部弁
で話がしてみたかったです。きっとまわりの人は宇宙に来た様な感覚が味わえるかも?

 こうして先生と過ごさせて頂いた楽しかった2年間の失敗談はつきません。(自慢
ではないけど)本当に本当に楽しかった2年間でした。他の何事にもかえられない貴
重な経験となりました。
沢井先生がお倒れになって、熊本の病院から東京のご自宅にお帰りになっていた時に、
一旦日本へ戻っていた私は再度NYへと出発しました。冗談半分に「早くいい彼氏を見
つけてNYでがんばりなさいよ!」と
笑って送って下さったお姿&笑顔を思い出します。「NYで基盤を作り、一日でも早く
(沢井)先生にNYへ来て頂ける日が来るようにがんばりますから、絶対元気になって
ください。約束ですよ!!」と言ってお別れをしました。それが元気な先生にお目に
かかる最後になろうとは。来年3月のNYでの演奏会、出来る事なら元気に復帰した沢
井先生にも来て頂きたかった。悔やんでも悔やみきれない。とにかく今度は胃が痛く
ならないように早いうちからしっかりとがんばろう。天国からちゃんと見ていらっしゃ
るだろからな〜。
怒られないように...。

皆さま ”胃” は呉々もお大切に。


  **追伸&言い訳**
15年前の写真、自分で見てもこわい〜!ちなみに私は若い頃波乗り(サーフィン)を
やっていました。だから着ている物もなんとなくサーフアーっぽい??
人からよく、長い物が好きなんだねって言われます。
琴2m サーフボード2m ほんとだあ〜〜〜〜〜。


エッセイその
11

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